kazuma

 

生きるって何?

 

「何のために生きるんだろう?」若い頃はよくこれで悩んで苦しんだものです。

人生に意味なんて無くて、ただ生まれて年老いて死んでいくだけの事なのかと。

 

今の僕の結論から言えば「何のために生きるか?」ではなく

「今のこの瞬間をいかに生きるか?」という解釈がしっくりきています。

 

哲学者ニーチェも言っています。

「事実なるものは存在しない。ただ解釈があるだけだ」

と。

Friedrich Nietzsche
フリードリヒ・ニーチェ

ドイツの哲学者、古典文献学者。

鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者と称される。

国: ドイツ
生: 1844年10月15日
没: 1900年8月25日(享年55)

 

 

 

 

「何のために生きるんだろう?」

どれだけ自問自答しても絶対的な答えを得られませんでした。

 

と言えどやはり「何のために生きるんだろう?」という問いを、つい自分自身にし続けてしまいます。

 

これはあくまでも僕の解釈ですが、

「人生は霊性を高める(愛のメーターをあげる)ための修行の場と時間」

であると。

 

なんだか宗教っぽくなってきましたね(笑)。

僕は無宗教ですが無神論者ではありませんと言いますか、神様はいてほしいなと思っています。

 

ある時、とてもスピリチャルな方から「人生の意味って何だと思う?」とストレートな質問を受けました。

僕の返答は先述しました「この肉体活動を通して霊性を高める為だと思います。」

というモヤっとした返事をしました。

 

するとこういう答えを頂きました。

「ただ体験する為だよ。それだけ。」

僕はびっくりしましたが、なぜかその言葉がストンの腑に落ちたんです。

 

「体験する」という事が一番大事なんですね。

体でする経験と書いて体験と書きます。

 

この肉体が有るからこそ、食べさせる為に労働が必要だったり、

病気で苦しんだり、美醜のコンプレックスをもったり、老いたり。。。

また、この肉体が有るからこそ、美味しい物を食べる喜びがあったり、

触れ合う喜びがあったり、さまざまな五感で感じる喜びがあります。

 

いつか人は死ぬからこそ、この人生は短く儚く尊い。

満開の桜も枯れてしまうからこそ、咲いている時の尊さ、愛おしさ、美しさを感じます。

地元の御油町の音羽川堤防沿いの桜並木。この景色はまるで人生の縮図。川はとうとうと流れ、景色は移り変わっていく。

 

神様という存在が在り、フワフワした肉体のない霊体であれば、肉体が無いので「体験」はできませんからね。

 

「人は神の分け御霊(みたま)」という言葉を聞いた事があります。

つまり、体験の邪魔になるから記憶だけは決して自分の分身に体験させて、その体験情報を吸い上げる。

今時の例えで表現しますと、グーグルなどの検索エンジンから皆さんの情報をクラウドに吸い上げて、

ビッグデータをつくり人工知能の精度をあげていく。。。なんて言うと怖くなるのでこの辺でやめておきます。(笑)

 

できるだけ酸いも甘いも「いい体験」をして人生を送りたいものですね。

 

 

 

 

 

yoshimi

 

大切にしたいご近所さんと

コミュニケーションの関係

 

 

突然ですがみなさん、昔の日本と今の日本、どちらが温かい国だと思いますか?

あなたの世代にもよると思いますが、四十代の私は、「昔の方が温かかった」と思います。

ご年配の方に聞いても「昔は良かったよ」と口々に仰います。

もちろん、戦後の貧しい時代よりも今の方が物質的に豊かで便利にはなりましたが、

核家族化、共働きにより近所づきあいが希薄化し、マンションが増え、

「隣の人が知らない人」という方も案外多いのではないでしょうか。

 

私は昔ながらの住宅街の一戸建てに住んでいますが、

後ろに建った3軒の新築一戸建てに去年引っ越して来られた方々とは、

最初のご挨拶時にお話して以来、姿を見る機会がありません。

意識しないとお名前も忘れてしまいそうで、メモしてあるくらいです。

生活音は聞こえるのにどんな方かわからず、探り合うように関わるのは寂しいなと感じています。

かといって自分からわざわざ声をかけに訪ねるほど用事もないですしね。

顔を合わす機会が何度もあれば、徐々に世間話もできるでしょうが、全然姿を見ないのでできません。

きっと共働きなのでしょうし、私も仕事で近所を歩くことも少ないですしね。

 

一方、近所に住む七十〜八十代の方々は、行き交う人と楽しそうにお話していて微笑ましいです。

年々年老いて行く互いを気遣い合い、

近くのおじさんが向かいの一人暮らしの足が不自由なおばあちゃんの庭木を切ってあげたり、

おばあちゃんは故郷から届く季節の果物をおすそ分け。

足腰不自由になると数軒先の家まで歩いて行くのもやっと。

ゴミ出しに行くのも私なら数秒の距離なのに、おばあちゃんは5分かかります。

 

そんな対象的なご近所さん達を見ていてとても考えさせられるのです。

私はこの家に引っ越して来た頃、娘が赤ちゃんで育児に多忙で心に余裕がなく、

話しかけてくれるのおじさんおばあさんが正直鬱陶しくて避けていました。

しかしそんな私に対しても、根気よく声かけ続けてくれたおかげで

私の心は解凍し(笑)、今では親戚のような大切な存在です!

 

 

あれから十年経ち、随分と年を取られました。

私も忙しさは増す一方なのでゆっくりお話しする時間が取れませんが、そんな時はこう考えます。

『誰にでも明日が来るとは限らない』

こう考えることにより、

「ま、いいか、面倒だし」と思っても、「いや、今行こう!」

と、声を掛けに行けます。

 

野菜や果物のおすそ分けや、作りすぎたお菓子やおかずをもらってもらったり、旅行のお土産を届けたり。

モノを届けることで会話の機会を持つことができ、そこから話が盛り上がり、

気づいたら三十分〜一時間なんてことも!忙しい時は「しまった!」と思いつつも、

心はポカポカに温かく幸せです♡

 

 人の脳は『人と共有すること』で活性化するように作られています。

 

人は一人では生きられないので、助け合うシステムなんですね!

人間関係、特に近所付き合いは都会に行くほど希薄化しする一方ですが、

身近な人こそ共有の練習になります。

 

共有=コミュニケーション。

 

自分を好きになるにはコミュニケーションを磨くこと。

それにはご近所づきあいや、

たわいのないことを共有する人と人との繋がりは最高の練習の場ですね!

私もおじちゃんおばちゃんに教えていただいた人の温かさを、

後ろのお宅の若い方達に少しでも引き継げるようにがんばります!