もともと僕はデザイナーや、エクステリアプランナーを目指していた訳ではなく、画学生でした。

画家になりたかったのです。

 

一年浪人の後、愛知県の公立の芸術大学へ進学しました。
今回のブログは、その時の画学生浪人中の氣付きのお話です。

 

受験浪人当時、名古屋市千種区にあります河合塾の美術研究所に毎日通っていました。
毎日毎日、木炭紙にデッサンや、F15号のキャンバスに油絵を描きます。
この浪人時代に多くの画学生は基礎デッサン力がぐっと上達します。
地道なトレーニングですから枚数を描けば描くほどに。

美大合格した後では、なかなか基礎デッサン力は上達しないんです。
だって美大入ってからは、誰もが好きな絵を自由に描きたいですから、浪人時代の時ほど地味な基礎デッサン力のトレーニングをしなくなる訳ですから。

10代の頃にkazumaが描いたデッサンです。

 

受験浪人時代、毎日毎日地道にデッサンのトレーニングをしていますと、ある時ふと「氣付き」がありました。

石膏像を木炭紙にデッサンする修行をよくしていたのですが、
目の前のリアルな立体物(3D)を、2次元(2D)の紙に写す訳です。
これが何とも難しい。

目や鼻や口といった「部分」だけを一生懸命うまく描いていても、全体のバランスが悪いととてもブサイクになります。
かといって、薄目にして「全体感」だけを捉えようとしても、部分を描いていかないと、モヤっとした形状になっていくだけで、具体的なカタチになっていきません。

全体をよく観察して全体構造を把握し、部分を描き、また全体を見てバランスの確認をしながら、また部分を見て描く。

この繰り返しです。

いっぺんに2つの事は同時にできませんから、交互に繰り返していく訳です。
そして1枚の紙の中に小宇宙を創るのです。

 

 

マクロとミクロ
光と影
見えないはずの空気
1ミリでもずれたら崩壊する造形バランス

 

 

この1枚の紙に閉じ込めた宇宙は、人生と同じではないのか。
この地球を含めた大宇宙と同じではないか。

 

 

フラクタルなんて言葉も知らなかった当時、そんな事を強く感じた記憶があります。

 

人生経験も知識も乏しかった10代のあの頃の氣付き。
おそらく職人さんでも科学者でもスポーツ選手でも誰でも
1つの地味な事を丹念に丁寧に懲りずに飽きずに繰り返していると、

「世の理」を感じる瞬間ってあると思うのです。

 

それはもしかしたら勘違いかもしれないし妄想かもしれないですけど、

いいじゃないですか
本人が何かに氣付いたんだから(笑)