前回のブログでの書きました、
池田整治さんの著書「マインドコントロール」
の中に、もう1つびっくり情報がありましたので、ご紹介します。
我が地元の豊川市に、菟足(うたり)神社があります。
な、なんと!
徐福の子孫(秦氏)が菟足(うたり)神社を創設したの!?
以下抜粋______
(101頁)
愛知県宝飯郡(2010年2月に豊川市と合併)小坂井町に「風まつり」の手筒花火で有名な「菟足(うたり)神社」がある。
菟足神社は、小坂井駅の東200メートルほどの国道一号線のそばの傍にある。
神社の紋章がウサギであり、2000年以上の歴史がある。
今から2200年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬莱(ほうらい)など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。
そこで始皇帝は、その霊薬を求めるように徐福に命じ、
3000人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。
しかしその後、徐福一行は二度と中国に帰らなかった….。
(中略)
熊野に渡来した徐福一行は、やがて穂の国のこの地方に移り住み、その子孫が「秦」氏を名乗り、菟足神社を創設した。
そのため、菟足神社には日本のほかの地域の農耕民族の 五穀豊穣の神事とは全く違う「生贄(いけにえ)神事」が、古来行われてきた。
(中略)
徐福以下3000人が事実かどうかは調べようもないが、菟足神社のように「人身御供(ひとみごくう)」 が神事となっている神社の現存、秦氏へとつながる家系から見ると、かなりの数の集団で渡来してきたことは間違いない。
その菟足神社近くの街道に、明治時代には「小田橋」と書かれていた「子だが橋」の哀しい物語がある。
菟足神社の大祭の日には、その日最初にこの橋を渡る「若い女」を生贄にする風習があった。
今から1000年以上も前のある日、生贄を捕まえる役目が待っていると、やって来たのは他へ縁付いた自分の娘だった。
彼は「子だが仕方ない」と娘を生贄にしたという。
それからこの橋は「子だが橋」と呼ばれるようになった。
抜粋おわり_____
いや〜、地元民でもほとんど知らない情報でしょ〜
信じるか信じないかは、あなたしだい!(笑)